地元福岡で終活を楽しみながら、ともに生きるブログ

僕って、高校のころ、おじいちゃん、おばあちゃんと三世代同居していた。よかった思い出が、おじさん、おばさんの遺産相続で消し飛んだ。大好きなおじいちゃんもおばあちゃんのために、してあげることが小さかった。今度は僕の番になった。少しずつ同級生が逝ってしまうし体も弱くなる。何でも話せる友達がいないと老人は寂しい。だから、ブログで友達を作りながら、お互いにサポートしあいたい。は弁護士法人は当たり前であり、どれもこれも大規模化している。一方日本はどれもこれも小規模化している。とりわけ士業は零細企業状態。だからこそ大規

エンディングノートを書いてみよう

前から気にしていたことだけど、自分のエンディングノートを書き始めることにした。

書く場所は、このブログ。

もっともそうだとすると、本当の自分をどこまで出せるかどうか、はっきりしない。

まずは、書けることから書いていくことにした。

 

生まれた日:昭和33年5月15日

生まれた場所:北九州市戸畑区旭町164番地

生まれた家:上の住所に建っていた2階建て住宅の2階の畳の部屋(10帖く

らいの大きな部屋だった)

生まれた時の同居家族:母、父、父方の祖父、曾祖父、祖母、父の妹3人、弟1人

その頃の暮らし:そのころ、若戸大橋が建設中であり、僕が泣いてぐずったら、母がおんぶして若戸大橋を見に散歩に出てくれた。また、家の前には、国鉄の大きな操車場があって、これを跨ぐ鉄橋があって、母を僕をおぶって鉄橋の上を端から端まで歩いてくれた。まあ、母にしても家に帰っても舅、小姑ばかりで面白くなったんだろうけど。

健康状態:大病はしなかったみたいだけど、右足に大やけどをした。これって、確か3歳になる前くらいだったらし、そのころ、上の父の実家から出て、母がアパートを借りて暮らしていた。つまり、母は実家に同居しているのが嫌になって、洋裁が出来たから自分で稼げるということで、別居していたんだ。だから、洋服の仕立てを請け負っていたところ、僕が泣いてぐずったから、「ええーうるさい。裁縫に集中できない」と、ネオを猫を僕に投げつけた拍子かなにかで、薬缶のお湯が僕の右足に大量にかかったんだ。それで、右足の外側がべろっとはがれて、僕は大泣き。

 慌てた母は、すぐに僕をおぶって地元で名医だという皮膚科(戸畑区麻生通り?)に担ぎ込んだ。どんな治療をしてくれたか、僕は分からないけど、その後、ケロイドが残ることもなく治ってしまった。

 今でもうっすうらと、僕の右足のすねの外側は、ポツポツとした多数の斑点が残っており、これは夜間のお湯で皮膚がべろっとはげて、毛穴の廻りだけが変な状態になっていたので、そのたけに凹凸のない斑点模様だけのケロイドとなってしまったんだ。

 ちなみに、ご先祖様のおかげで、そこに菩提寺があるので、昨年夏、菩提寺付近にいった。たまたま、僕の実家と当時住んでいたアパートもその付近にあったもので、もちろん建物はなかったが、地形や遠くに見える「若戸大橋」はそのままであり、少し懐かしさを覚えた。