地元福岡で終活を楽しみながら、ともに生きるブログ

僕って、高校のころ、おじいちゃん、おばあちゃんと三世代同居していた。よかった思い出が、おじさん、おばさんの遺産相続で消し飛んだ。大好きなおじいちゃんもおばあちゃんのために、してあげることが小さかった。今度は僕の番になった。少しずつ同級生が逝ってしまうし体も弱くなる。何でも話せる友達がいないと老人は寂しい。だから、ブログで友達を作りながら、お互いにサポートしあいたい。は弁護士法人は当たり前であり、どれもこれも大規模化している。一方日本はどれもこれも小規模化している。とりわけ士業は零細企業状態。だからこそ大規

いつまで続く、コロナ自粛!

三連休中は、福岡市内から大分、熊本の行楽地に向かう車が例年通り多かったようだ。

筑紫野市の実家にいると、連年通り5号線は、結構な渋滞!

 

 今の医師会の自粛要請は、無理なことを僕らに押し付けている。行楽地に行ってストレスを下げて、健康増進を図ることはウィルスに対する免疫力を強化することになる。しかし、外出を控えたのではどうやってストレスを下げるというのか?

 医師会は、医療機関のキャパを確保するためというのだろうが、総体的な国民の健康度は、医師会の自粛コールによって、間違いなく下がる。

 そして、失業問題。失業こそもとも不健康な要因だ。さらには、自殺率の増加。。。

 医師会のいうとおりにすることで、失業問題とか国民の総合的なストレス解消ができるならいいが、そうでなければ医師会の意見には大反対だよううう。

公民館での勉強会

福岡市南区のある公民館で、私が市販のエンディングノートを使いながら、参加してくれたご婦人方に、使い方などをご説明した。

 使い方と言っても、自分のプロフィールだとか出生地、大まかな今持っている財産の中身、老後のこと(老人ホームに入るとしたら、どこがいいか、だれと最後に過ごしたいか)、お墓はどこにするか、葬式はどんなふうにするかなどなど。

 

 考えておかなければと思いつつも、先回しにしていたことを紙に書くことで、思索が深まるという面がある。

 参加していただいたのは、ご婦人8名、若い男性の行政書士1名。

 ご婦人方は、もともと関心が高かったためであろう、質問も多く出してもらった。

 質問の中で、私が気になったのは

    安楽死 ホスピス

   「将来、ホスピスに入りたくなったら、だれに頼べばいいか?」

という現実的な悩み。

 福岡市及び周辺でホスピス診療科を設けている病院は10軒あった。

 少なくとも、ネットの情報によると、ホスピスとして何をするかをある程度細かく記載されているのは、志免町の「栄光病院」だった。

 そういえば、もう10年以上前に、栄光病院は、ボランティアの付き添いの方が休日にやってきて、患者さんのために、終始話を聞いてもらえるなどを当時の知り合いの看護師さんから聞いたことがあった。

 

 

相続などの勉強会

私が勤めている行政書士事務所で、毎月1回勉強会が実施されている。10月16日にも実施されて、私を含めて5名が参加した。

 メインテーマは

   簡易型の自筆証書遺言の書き方と法務局での保管手続き

 今回の民法改正により、従来手続きや書き方が難しかった「自筆証書遺言」が簡単になった。従来型もそのまま残っているから、そちらがよいという方はそれでどうぞ。

 簡単になった点は

  ①本文は自筆でなければいけないが、添付の財産目録は、例えば通帳のコピーなどでよい。

  ②本人(被相続人)が法務局に赴き、あらかじめ用意した自筆証書遺言を所定の保管申込書とともに、法務局の係に提出するだけ。

料金は、3900円。。

 これは安い。それに従来の自筆証書遺言だと、被相続人が自分で書いた後、封書に密封し、時期が来たとき(つまり、被相続人がなくなったとき)、封のまま家庭裁判所に持ち込んで、検認(本人が書いたものかどうか、内容が理解できるか)を受けなければならなかった。これが、例えば、本人の筆跡でないとか、本人が正気でない状態(心神喪失というけど)で書いたとか、いろいろ批判されて、効力を争われていた。

 新しい制度は、なにしろ、被相続人が自ら法務局に出向いてから、提出するわけだから、その部分で公開的な状態で受け付けられるから、その遺言の効力が争われる可能性は小さいと思うけどね。

 それに、渋滞の従来の自筆証書遺言だと、その存在を知っているのが被相続人だけだったりするから、そして、自宅の奥深くにしまい込んでいて、結局見つけられずに、遺言の内容が実現しないことが十分あり得た。

 新しい制度でも確かに法務局には被相続人が死亡したことは通知されないから、相続権利者が自ら法務局に保管中に遺言の開示を求めなければならない。

 その程度だけど、従来と違って遺言は法務局に存在していることは確実だから、その面でよくなったと言えるだろう。

 勉強会の参加者には、遺品整理の仕事の関係で、「誰かが死んだときはまず遺言書を探せ」と教えられてきたし、実践していると。

 なるほど。なるほど。

 

 

 

エンディングノートを書いたよ。

 書いているだけでも、ほのぼのと少年時代を思い出す。

 僕はとても寂しかった。僕は将来が不安だった。大人たちは自由が多くていいなああと思った。じいちゃんは明治生まれだったし、憲兵として満州にも住んでいたが、戦後GHQがきて、元警察幹部とかはあらゆる公務員から追い出されたと言っていた。というか、戦後の混乱で職がなかったんだ。それが口利きで通商産業省の現場役人になり、それはもう終生にわたり、口利きしてくれた人に感謝していた。

 それに、公務員に再就職できる前は、豆腐の行商もしていた。それはそれは、旧制中学を出て警察署長にもなったじいちゃんだったから、プライド的にも日常生活的にもつらかったと思う。豆腐は早朝から(前日の未明から)仕込みをして、午前6時過ぎには住宅地にリヤカー(知ってる?)を引いて、豆腐を売っていたという。当時は温暖化ではなく、早朝は冷下5度前後だったろうから、「あーー寒かった」とつぶやていた。

 

 めでたく公務員を定年退職して、当時は恩給というのがあり、それをじいちゃんは自慢していた。金額も多かったんだろう。

 

 などと自分のエンディングノートのはずが、いなくなったじいちゃんのエンディングノートみたいなことが次々に浮かんでくる。

 結局、じいちゃんは、裁縫で金を稼ぐばあちゃんのおかげもあって、子供たち5人のためにそれぞれ家を建ててやっていた。ばあちゃんが目敏くて、「土地はアナらず必ずかがるから」と言って、農協から借金して安かった土地を買い集めては、その上に住宅までたてていた。

 あっ思い出した。僕は小学生の頃、じいちゃんと一緒に住んでいいたんだけど、その日本家屋の大きな住宅は、大工さんと自分で建てたと言っていた。

 僕はそんな器用なことはできない。

 

 自分のエンディングノートは??

 

 僕は、当時の北九州市戸畑の実家で産婆さんに取り上げてもらって生まれた。

 生まれた家で3年は住んでいて、当時「若戸大橋」が建設中だったから、母は僕がぐずると、おんぶして鉄道の鉄橋を渡って、建設中の若戸大橋を見に行ってくれた。

 いやーもう完成したばかりだったかな?

 から

エンディングノート、続き

「2ページ目」

なかなか重たいテーマ。。。

1 告知について

 □病名や余命を教えてほしい

 □病名だけは告知して欲しい

 □どちらも告知不要

 □家族に任せる

2 どこで過ごしたいか

 □自宅

 □病院

 □老人ホーム

 □家族に任せる

3 延命治療

 □希望する

 □不要

 □尊厳死を希望する

 4 臓器提供

 □希望する

 □希望しない

 □ドナーカードを持っている

 

などなど。延命治療は全く希望しない。

これって全く僕の個人的意見だけど、肉体をもっていて、これを使っていくのは実は苦労するんだ。この世での生活をしていくからには、肉体がいるが、肉体の外は外界だし、そこには最近もいる。また、人間としての動いたり、本を読んだりを楽しむためには、強い体が要るし、体を守るための休息も必要だ。

 これって面倒なんだよね。というと命を粗末にしていると非難されそうだけど。そこはそれ、各人の考え方であり、もっというと、僕って潜在的な自殺願望者なんだと思う。日本は正確ではないけど、世界でも自殺率がとても高いそうだ。これって、多くのいやいや自殺願望をもつ自分人が、この世を楽しんでいないからだと思う。自分で自分のことと改めて振り返ると、僕って「この世を楽しんでいない」内面的にはね。

 でも僕の周りの人は、よく海外旅行に出かけるとか、空を飛ぶ趣味を持っていることとかから、僕は自分勝手に人生を楽しんでいると思っている。

 延命治療を希望しない理由は、とても気弱な理由なんだけど、僕が大学生の頃、腎臓病で僕が入院していた時、小学5年生なのに悪性の急性腎臓病のため、15歳までも生きられない子がいた。そんなことを思うと、実は「もう、おれはいいよ。あの子供くらべたら長生きしすぎたよ。厚かましいかな」って思っているんですね。

 なんか、暗い話になってごめんなさい。

 これって、「永遠のゼロ」(百田尚樹)の中に多く出てくる『戦友が戦死したのにおれは長生きしていいのか」という話と似ていると思う。

 

   あの子に比べたら、なんの罪もなかったのに、早々と20歳台でなくなったといノウノウと俺は長生きしてさして社会にも貢献していない。おれって罪深い奴なんだ。

と考えてしまう。

 だから延命治療とかは一切したくない。この世でしくじったことをおれは忘れたいんだ。長生きしたら、またしくじりを思い出すじゃないか。とね。。。

 暗い話でごめんなさい。ところが、僕って他人が長生きすることは肯定的に思うことが多い。

 

 

 

 

市販のエンディングノートを買った

ネットで、「相続手続きで困らないエンディングノート」を買った。

52ページという薄いものだが、最低限必要なことは書かれているようだ。

 

第1ページに書かれていることから紹介して書いていこう。

 

自分のプロフィール

   名前、住所、生年月日、名付け親、由来

 

過去の住所

 

学歴

 

職歴

資格など

 

アレルギーの有無

 

持病

面白そうなのだけ紹介する。

 

名前の結アハオフの安部藤平さんが付けたもので、なんでも「選挙に出てくれるに違いない。だから、有権者が投票用紙に書きやすくて簡単な漢字の名前がいいんだ」ということだった。

  確かに、一之は、画数にしてなんと「4」しかない。簡単すぎるぞ。

アレルギーはない。どちらかというと、味が濃いものやちょっと癖のある食物が好きだ。魚なら、魚らしい味のする青み魚のサバの方が、癖のない鯛よりもはるかに好きだ。もっとも、これには反対説があって、母親は「あんたは、小さいころ、叔父叔母、祖母祖父らとともに同居していた。当時は昭和33年で食料はまだ足りておらず、家族で美味しい料理を取り合うほどの状態だった。そして、当時は白身魚は青み魚よりもずっと値段が高くて、みんなが好んでいた。

 母はこう言った。

「それでね、かずちゃん、意地悪な当時20歳くらいの叔母がねえ

  『かずちゃんにはサバを食べさせておけばいから』

と言いながら、その娘が食べ残したサバを和ちゃんのさらに盛っていたのよ」

と。

 当時、僕の皿にサバが溢れていたそうだけど、それを僕はおいしそうに食べていたんだと(笑い笑い笑い)。

 小さいころに食べつけたサバは大人になってからも、ずっと好んで食べている。

 

〇持病

 僕は高校を卒業し、大学論人をしていた頃、風邪を引いて扁桃腺を腫らした。

 そして、血尿を出した。急性腎炎になってしまって、それ以来、慢性腎炎になってしまった。当時は「IGA腎症です。50歳を過ぎたら人工透析になる可能性が高いと思って下さい」とS医師から言われた。

 その医師は、彫りが深くてハンサムだったんだよ。ところが、幸か不幸か、60歳を過ぎたけど、腎臓はピンピンしており人工透析とは縁がないようだ。腎臓の調子も悪くないし、血液検査も良好そのものだ。

 

 

 

 

 

エンディングノートを書こう(2)

エンディングノートを書いている。

元前に書いていればよかった自分史を書くのと同じだ。

書いているうちに、結局、「自分をほめる」文章になってしまう。

書きながら

 

    ああ、すればよかった。

    こうすればよかった。

    こうしていれば今はもっと違っていた

という愚痴が出てくる。

 散々愚痴と後悔を書き連ねると(いやあー思いが出てきて文章にしたくなってしまうものだ)、次には

 

   でも、いま62歳で生きているしなあ。

   長い生きは経験を増やせるから得なんだろうか。

と思うようになると、前向きな言葉が出てくる。

 

 おれって、若いときは病気がちだったし、かぎっ子でいつも寂しい思いをしていたけど、親を喜ばせようと思って、中学時代に思い切り勉強したら、親が大喜びする高校に入学したし。

 大学時代は毎日気楽に遊んでいたし。

 サラリーマンになってからも、約30年以上大した成果もあげなかったが、勤め上げて平均サラリーマンよりは多めも旧臘も給料ももらっていたし。

 一応、ローンもなくなった自宅があるし。

 結構んもできて子供もいてくれるし。

などとしみじみと考えてします。

 

さて、こうして心の整理をしつつ、エンディングノートで書かなければいけないことをマニュアル本に目をやる。

 

1 今の財産目録を作る

2 自分の葬式をどうして欲しいか書いてみる

3 大事なものをだれにもらってもらうか、子どもに残したいメッセージを書き留めて、伝言者を決める

4 死亡後、遺体をの一部の臓器を提供するかを決める

5 意向とを遺骨をどこに埋葬して欲しいかを決めて、委託者を決める

6 遺言書を書く

 

などなど急がしではないか。

 

 定年後は、心の整理とエンディングノートの作成で、暇つぶしができる。